Far East Jazz Ensemble
Live at Star Eyes
2010年4月17日  ¥2.500.-  DMCD-05

1. SOMEBODY I KNOW ♪
2. QUARTER MAN ♪
3. Pazzle ring ♪
4. Throw out ♪
5. My Heart ♪
6. But Beautiful ♪
7. Inspration ♪

8. My Dear ♪

9. FEJE ♪

 

 陸上の800メートル走は、一見地味だが、通のファンにはなかなか人気のある種目なのだそうだ。なんとなれば、この競技には短距離走の瞬発力と長距離走の持久力&かけひきの両方が盛り込まれておりトラック・レースの真髄が凝縮されている、ということらしい。むろんそれだけアスリートにとっては過酷きわまりない種目であり、オールマイティーな身体能力が要求されるわけだが、そういう強者たちが人智と体力の限りを尽くして死闘を繰り広げる姿が、ファンにはまた堪えられないのだろう。  

 Far East Jazz Ensembleの新作をきいて、僕はこの800メートル走のことを思い出した。

 


  あるいは今では違うのかもしれないが、かつて日本人は、忍耐強く勤勉な国民として世界に知られていた。その象徴ともいえるのがマラソン。スポーツ科学にもとづいた練習ではなく「根性」のみでオリンピックの上位に食い込んでくる日本人走者の姿は、美しくある一方で、戦時中のカミカゼを思い出させもし、西洋人の目には薄気味悪く映ったのではあるまいか。  


  こういう特質は音楽についてもいえることだ。洋楽が日本に入ってきた明治にまで遡らなくとも、演奏技術の習得に際しての徒弟制度的根性論は、ついこのあいだまで当たり前のように残っていた。そしてそういう教育と持ち前の勤勉さによって培われた技術は、和を尊ぶというもう一つの国民性とあいまって、良くも悪くも独特の音楽性を形成した。良いほうをいえば、前にしゃしゃり出ずに調和を重んじるため合奏の精度に優れているということ。いつだったかデイビッド・サンボーンが日本の弦楽オーケストラと共演した時、(そのオケはけっして超一流ではなかったにもかかわらず)「初顔合わせでこんなにスムーズに演奏できたのははじめてだ」と驚いていた。

 

 こういう長所は、だがちょっと視点を変えると短所に転ずる。「日本人は技術力が高く合わせるのは巧いが、個性に欠ける」というのは、我々が耳にタコができるほどきかされてきた評価ではなかったか。そういえば、秋吉敏子が武満徹との対談の中で、「あなたのバンドのようなアンサンブルは日本のビッグ・バンドには無理ではないか」という問いに対し、「技術的にはそうかもしれないが、バランス的には日本のバンドのほうが上。お行儀がいいから」といっていた。この対談がおこなわれたのは1976年。日本にジャズが根付いてずいぶん経っていたにもかかわらず、長年本場のシーンで生きてきた人の耳には、この国のジャズはまだ「お行儀がいい」ときこえていたのだ(補足的にいうと、60年代から70年代にかけて、そういうお行儀がいいジャズの反動として、「技術よりも個性」という風潮が、特にフリー系のフィールドでは一つの勢力となった。音楽の良し悪しはともかく、そういう考え方が力を持ってしまったことは、日本のジャズの在りようを少なからずねじ曲げてしまったように僕は感じている)。

 

 しかしそんな状況が、1990年代以降大きく変化していることは、改めてここに書かずともファンなら誰もが気づいていることだ。アメリカに留学したり整備された教育機関でジャズを学ぶことが容易になった現在、技術力はもはやあって当たり前のものとなり、ミュージシャンが生き残っていくためにはそれにプラスした「個性」が重要になってきた。技術だけでなく、しかし個性だけでもない、その二つがしっかりと結びついた表現。

 

  こういう行き方は、昨今ブームのビッグ・バンドや大型コンボの語法に置き換えると「精緻・強力なアンサンブルとスリリングなソロの共存」ということになると思うのだが、ここ10年ほどのあいだに出てきたそれらのバンドがそろってそのコンセプトを掲げているのは、彼らがそこに、世界に通用する日本ジャズの可能性を見出しているからだろう。そしてその可能性を――少なくとも僕に――ことのほか強く感じさせるのが、Far East Jazz Ensemble である。

 

 

  このアルバムを手にしている方には説明の要もないと思うが、念のため記しておくと、Far East Jazz Ensemble(以下F.E.J.E.)はベーシストの安ヵ川大樹が2006年に立ち上げた9人編成のビッグ・コンボである。メンバーの多くは安ヵ川と同世代の30歳台半ばから40歳台。すなわち現在の日本ジャズ・シーンの中核を担う精鋭たちだ。

 

 そういう人たちによって組織されたバンドだから、当然その演奏は、先に述べた「精緻・強力なアンサンブルとスリリングなソロ」を融合させる、現代ビッグ・バンドのスタンダードともいえる行き方を取るわけだが、しかしもう一歩踏み込んできいてみると、彼らの音楽が、そういう方法論をさらに進化させた、ほかのビッグ・バンドとはちょっと異なる独自の個性を有していることがわかってくる。

 

 その個性をひと言でいうなら、「機動性」あるいは「柔軟性」ということになろうか。現代のビッグ・バンドがいかに俊敏性を増したとはいえ、20人近くの、それも一癖も二癖もあるミュージシャンたちをいっせいに駆動していくためにはどうしてもある程度拘束力のある縛りが必要となってくるだろうし、その大所帯を活かすためには演奏の構造も、アンサンブルのパートはとことん複雑に、ソロでは思う存分自由に、というふうにコントラストを強くせざるを得ないはずだ。

 

  ところがF.E.J.E.はノネットという手頃な(?)人数であるがゆえにか、ソロとアンサンブルという二つの要素の境界がよりグラデーション的曖昧さを帯びるのである。むろんそれぞれの要素はいずれもきわめて高い水準にまで磨き上げられている。各曲にほどこされた、複雑で技巧的だけれどもそれがまったく難解には陥らずにきき手の心を沸き立たせるアレンジ/アンサンブルは本当に見事だし、フィーチュアされたソロが世界のどこに出しても胸を張れる第一級のものであることはいうまでもない。

 

 そういうものが、しかしここでは、これはソロ、これはアンサンブル、というふうにセパレートして提出されるのではなく、渾然一体となって響いてくるのである。たしかに曲のテーマがはじまった時、「ああ、これはアンサンブルだ」と意識してはいる。だが演奏が進むにつれてその意識はどこかに雲散霧消し、いつのまにか我々は音楽そのものをきくことに没入している。ソロはアンサンブルを、アンサンブルはソロを互いに補完しあい、結果そこには、この規模の編成、このメンバーでしか生まれ得ない「音楽」が出現する。スリルと調和、テンションとリラクゼーションそういった相反するものが有機的に絡み合い、溶け合った音楽が。

 

 その様を僕は、まさに冒頭で述べた800メートル走を見るように、きく。ある者がトップに立ってソロを取ると、それに合わせてバック全員がガーッとペースを上げる。逆にバックのリフがソリストを牽引したりもする。タイマンで切り結ぶような音のやりとりもあれば、全員参加で音楽を押し上げていく場面もある。一応の決まったストーリーはあるが、それはミュージシャンの気分によってどんどん変化していく。こういう音楽はほかのどこでも味わえるものではあるまい。

 

  「古い舟を今動かせるのは、古い水夫じゃないだろう」と歌ったのは吉田拓郎だが、この作品をきいて僕は、ジャズという古い船の舵取りは、たしかに彼らの世代に託されたのだと改めて感じた。

 

 

  最後に曲についてかんたんに記しておこう。オープニングの《サムバディ・アイ・ノウ》は本作からメンバーに加わったトロンボーンの中路英明のオリジナル。8ビートの一見ハッピーなフィーリングのナンバーだが、セカンド・リフやちょっとしたハーモニーの扱いに意外なほど細やかな工夫が凝らされている。2曲目、ピアニストの堀秀彰が書いた《クオーター・マン》は、柔らかなメロディーとハーモニーが印象的なコンポジション。途中、テナー・ソロ・パートの転調と盛り上がりが演奏に大きなアクセントになっている。続く《パズル・リング》はテナー・サックスの浜崎航の作品。ホーンとブラスが知恵の輪のようにパッセージを絡めていくテーマ部から、ピアノ~テナーのソロと次第にヒート・アップしていく流れが実にエキサイティングだ。だが、それ以上にエキサイティングなのが、大坂昌彦作の《スロウ・アウト》。ストレート・アヘッドそのもののフィギュア、スピード感は、強力無比なジャズをたっぷりきいた!という満足感をきき手に与えてくれる。

 

  《マイ・ハート》は本作2曲目となる浜崎のオリジナル曲。作曲者自身による泣きのブロー、歌がたっぷりと詰まったベース・ソロ、そして美しすぎる管のアレンジと、ききどころ満載のバラード・トラックだ。続く《バット・ビューティフル》はアルバム中唯一のスタンダードで、アレンジは中路英明。編曲者本人のプレイはもちろんだが、堀のピアノも素晴らしくはじけている。その堀が作曲した《インスピレーション》は全編を横溢するリズム・パターンとファッショナブルなハーモニー進行が印象的なナンバー。そのサウンドは、いかにも現代のジャズという顔つきをしている。

 

  そして《マイ・ディア》と、ラストの《F.E.J.E.》はいずれもリーダー安ヵ川の作品。前者は豊かな美しさを持ったバラードで、とりわけテーマの前半できかれるベースのアルコ・プレイはその深い響きできく者の心をとらえる。一方後者は前作でも演奏されていたナンバーだが、こちらはライブとあってそのスリルと興奮は尋常ではない。これぞ現代のメイン・ストリーム!と呼びたいパフォーマンスである。

2010213日 藤本史昭)