古谷 淳
exprimo
2009年10月10日  ¥2.500.-  DMCD-03

 1. Papa’s Move

2. Secret   
3. Over The Rainbow
4. Green Hill
5. December Steps
6. えんどうの花
7. Dear Little Fish
8. Blue Moon

 

近年はアメリカでジャズを勉強してきたという日本人ミュージシャンはちっともめずらしくなく(それどころかそうでない人を探すほうがむずかしいくらいだ)、我々きき手もそのことに特別な価値を見出しにくくなってきているけれど、しかしそこには一つ、見落としてはならないファクターがあるのではないかと僕は考えている。それはその人が「いつ、どんな目的で、アメリカに渡ったか」ということだ。
  アメリカに留学してジャズを学ぼうと考える人の多くは、将来プロになりたいという思いが高じて、つまり強い目的意識を持ってかの地に渡るケースがほとんどだろう。だから彼らはそこで、きわめて合理的なやり方でジャズを学ぶ。裏を返せばジャズ以外のことを学ばない。もちろん日々の生活の中でさまざまな交流はあるだろうし、アメリカの文化も自然に身体の中に入ってくるだろうが、それでも最優先されるのはジャズを学ぶこと。結果そこには、理論や技術は本場仕込みだが感覚は日本人、という独特の個性が形成されることになる(もちろん僕はそれをまったく否定しない。なぜならそれが、日本人がジャズをやることの価値、につながることもままあるからだ)。
  ならばそうではない場合はどうなるのか。たとえば、古谷淳のように。

  実家が交換留学生を受け入れるホスト・ファミリーをしていた関係で幼い頃から外国人と接する機会の多かった古谷淳は、自身も次第に異国の文化や生活にあこがれるようになり、16歳の時アメリカに単身留学する。だがその留学は、ジャズとはまったく無関係のものだった。両親ともに音楽家で、家庭の中には常に音楽があふれていたが、物事を強制しないという父親の教育方針ゆえに、彼が両親から正式に音楽レッスンを受けたことはなかったし、クラシックをきいたりピアノで即興したりということはあっても、それはあくまでも本を読んだり外で遊んだりするのとおなじ意味しか持っていなかった(ジャズについていうと、ストレートアヘッド・ジャズはまったく好きではなかったが、キース・ジャレットやポール・ブレイのソロ・パフォーマンスには惹かれたそうだ)。
  ところが留学先の高校のビッグバンドにピアニストとして参加したことから、彼の人生は一変する。この後のプロフィールはホームページにくわしいので要点だけを記すと、「92年にウディ・ハーマン・ジャズアワードを受賞後カリフォルニアのオレンジコーストカレッジに入学し、95年にバークリー音楽院に編入。在学中からプロ活動をはじめ、米国アーティスト・ビザを取得後は世界各国で演奏活動をおこない2004年に帰国。現在は、東京都内を中心に活動を展開している」ということになる。
  僕はライナーでミュージシャンのプロフィールを延々と紹介することはあまりしないのだが、今回あえてそれをしたのは、彼の経歴がその音楽の在りようと深く関係しているように思えたからだ。ジャズとは無関係のところでアメリカに行きそこでジャズの魅力に開眼した人の奏でる音楽と、最初からジャズが目的であの国に向かった人のそれとでは――優劣ではなく質感の点で――肌触りが異なるのではないかそんな想像をさせる響きが古谷淳のピアノにはたしかにあるのだ。

  古谷淳の演奏をきいて僕がまず心惹かれたのは、その音楽がきわめて"自然"ということだ。ことさらにブルース・フィーリングを強調したり、逆に日本人であることを前面に押し出したりという無理矢理感が、この人の演奏するジャズからは少しも感じられない。その理由を僕は、彼がアメリカの空気を自分の国のものとして呼吸し、だからジャズという音楽を特別なものとして捉えていないからではないかと想像する。ゆえにその音楽は、これがデビュー・アルバムだとはちょっと信じられないくらい肩の力の抜けた安定感を感じさせるのではないか。
  ただだからといって、そこに主張が希薄だということではまったく、ない。むしろ近年のストレートなジャズ作品としてはめずらしいくらいの"意志"が、このアルバムには横溢している。たとえば彼のオリジナル。伝統的なモーダル・セオリーを踏襲しながらもハッとするような独創的意匠を随所に散りばめ、なおかつどんな局面にあってもメロディックな語り口を失わないそのコンポジションは、既成の形式を乗り越えようとするチャレンジ・スピリットの証といえよう。また2曲のスタンダード・ナンバーの扱いは斬新としかいいようのないものだし、さらにいえば沖縄歌謡の名曲《えんどうの花》を取り上げた選曲眼とその処理の見事さは、この人の音楽的感度の鋭敏さを示すとともに、「他人とおなじことは絶対にすまい」というマニフェストであるようにも思える。
  そういった主張があるにもかかわらず、しかしそれでもなお古谷淳の演奏は自然さを失わない。そこには無理に作り上げたという作為性や人工臭、テクニックの過剰なひけらかしが皆無で、だから音楽はきき手をまったく警戒させず、その心の内に易々と侵入してくる。こういうオープンマインドなフィーリングは、やはりその音楽が生まれた国にポジティブな感覚でもって自然に溶け込んだ人だからこそ持ち得る特質なのではないか。
  では具体的には彼の演奏のどこがどう自然で、どう人の心を惹きつけるのか。

  オープニングの《パパズ・ムーヴ》は、高速なテンポといいモーダルで複雑な曲の  作りといい、まさに「アフター・ウイントン」的なナンバーだが、にもかかわらずここには「わかるやつだけわかればいい。そしてわかるやつは、きいて驚け」という傲慢さ(80年代のウイントンには明らかにそれがあった)はまったくない。その理由はおそらく、ラインとフレージングの構成にいっさいの衒いがなく、音楽が彼の心映えを率直に映し出しているからだろう。またこの演奏をきけば、この人が素晴らしい技術(とりわけビートを絶対に逃さない指回りの耐久力)の持ち主であることが即座に理解されるわけだが、しかしその技術はただ単に速さや正確さをめざしたものとは質が違う。技術そのものよりもそれを使って何を語るかを第一義とする、その志の高さゆえ、彼のピアニズムにはある種の余裕が感じられるのだ。
  そういう古谷の志向性は、以降のトラックではさらに顕著になる。次の《シークレット》は1曲目とはうって変わって柔らかな叙情を前面に打ち出した楽曲だが、こういう曲想にこそ彼のめざす表現が端的に示されているのではないか。興味深いのは、これだけメロディックなテイストを持ったナンバーであるにもかかわらず、ここに過度な感傷がない点。あえてどっぷりとは歌いこまない、それでいて強い説得力を持つアドリブと相俟ってドライなリリシズムを放つこの演奏は、古谷淳のインターナショナルな感性を示す例証といってもよいと思う。
  アメリカに渡った目的がジャズを勉強するためではなかったとはいえ、日本にいた頃の彼がごく自然に音楽に親しんでいたことは先にも述べた。そんな彼の音楽の原風景を感じさせるのが、ソロで弾かれた《オーバー・ザ・レインボウ》だ。人口に膾炙した感のあるこのスタンダードを、美しいリハーモナイズと清新なアプローチで再構築してみせたパフォーマンスは、「ウィンダムヒルのピアノ音楽を好んできき、それに合わせて無心に即興していた」という体験によって培われた感性/音楽観が、無垢のままに保持されていることの証左ではないか。全編を横溢する切なさ全開のフレーズは、ジャズにあまり関心のない人をも虜にするに違いない。
  以下この調子で続けていったら紙幅がいくらあっても足りないのでもうやめるが、ただ先述した《えんどうの花》の見事な処理(放物線を描くようにゆるやかに音楽が高揚し、そのピークで出現するトランス的興奮。私見ではこの演奏は本作中の白眉)と、《ブルー・ムーン》における時が止まるかのようなテンポ設定とそれがもたらす求心力だけは指摘しておきたい。これらの演奏は、一見口当たりが柔らかく見えるこの人の音楽が、その実やむにやまれぬ強烈な表現欲求の上に成り立っていることを教えてくれる。
  これは、鬼面人を驚かすセンセーショナルな派手さを持った作品ではない。だがその音楽にこめられた真摯な思いは、どんな大作にも、どんな問題作にも、劣らぬ滋養をきき手にもたらしてくれる。消費されるだけの音楽があふれる現代だからこそ、これは多くの人の耳に届くべきだと僕は思う。

  最後にサイド・メンバーのプロフィールをご紹介しておこう。
  ベースの中林薫平は1981年生まれ。高校のブラスバンド部でウッドベースをはじめ、大学在学中の03年「守口・門真ジャズコンテスト」においてグランプリとベスト・プレイヤー賞を受賞した。その後日野皓正や吉田次郎らとの共演を経て、佐山雅弘、鈴木勲、市原ひかりのグループに加入。08年からは自己のグループを結成し都内ジャズクラブで活動している。
  ドラムの柴田亮も中林とおなじ81年生まれ。10歳でドラムと出会い、中学・高校と江森文男に師事したのち甲陽音楽院に入学。03年からはバークリーに留学し、多くのミュージシャンと交流を深め、多岐に渡る活動を繰り広げる。08年に帰国後は、首都圏に拠点を置きながら、中国ツアー、モントルー・ジャズ・フェス出演など、インターナショナルな活動も展開している。
(2009年8月21日 藤本史昭)